最近すこし悩んでいることがある。
空室だった右隣の部屋に入居者が来たのだ。
空きあれば人来たる。
大家さん的にはごくごく当然の営みといったところだろう。
僕ももちろんいつまでも今の静寂が続くとは・・願ってはいたけれど期待はしていなかった。
ただ。
この入居者、腹から声を出すタイプなのだ。
ようはうるさいのだ。
入居して2週間ほどは「何かしゃべっているな?」程度のものであった。
もちろん共同住宅のさだめ、生活音は当然僕も受忍するつもりで契約している。
いやなら人気のない場所に戸建でも建てればいいのだ。
裏を返せばお金がないのだからそれなりの我慢は必要なわけだ。
もちろん受忍限度という言葉があるように限度はあるけれども。
今日も朝から始まった。
昨日は夜の滞在時間2時間弱ほど、ずっと声の低い友人か同居人としゃべっていたが。
ゲームの実況でも配信しているのだろうか。ゲームの操作みたいなことに文句言いながらちょっと内輪ノリでもりあがってるみたいなような。
そう、何をしゃべっているのかがわかるほど大きな声にこの数日の間にすでに進歩を遂げていたのだ。
早いだろ。
声の低い友人のほうは何を言っているかまではわからない程度の声の大きさであり、当然の生活音として受忍できるほどだ。ただ「腹から声」のほうは違うのだ。引っ越してくれないかな。来たばっかだから無理か。
そんなこんなで新しいお隣さんはものすごい騒音ではないのだけれども、コアな時間には腹から出す声が響いて来るのだ。なにかしてるときはずっと。なにもしてなくてもときどき吃驚な声をあげるのだ。ひとりごとくらいは静かにしてくれ。
しかも日中も夜も家にいるのだ。仕事とか学校とか行ってないのか。行けよとは言わないが、行ってくれよ。
こちらの事情としては割高なお金を払って静寂を買っているのだからなるべく静かに過ごしたいのが本音だ。
だがもちろんそれは僕の事情であり、かの隣人がその願いを叶える必要はないのもわかる。
ただしやはり気になるのだ。
もともと僕がこの部屋を借り初めの頃から、車の音はうるさかったしなんやかや騒音はある部屋ではあった。
気が散ることもあり耳栓をしたり窓をしめたりもした。
ただ、ただである。
人の声というのは、そこに意味のある何かを発する以上、どうしても生活騒音以上に「声」として気になってしまうのだ。
左の部屋がうるさければ右の部屋からドンとされるようなかの伝説と語られるほどの薄い壁ではないが、本宅よりはいく分防音は弱い。
騒ぐような音を出すことについては彼が悪いとは思うけれど、彼がそこまで悪いかといわれるとそこは隣人騒音の難しさである。悪いとまでは言い切れないかもしれない。
だが気になる、気になるのだ。
ネットで「隣人、騒音」で検索してみる。
僕もすっかり現代の人間行動様式に染められてしまったな。
お手軽なもんだ。
『外出すればいい』というアドバイス。いや、たしかにそうだが、僕の場合、部屋出たら部屋借りてる意味ないし。
『耳栓する』してみたりするけど、あれ、ずっと入れてると耳痛くなるんだ。なんというか生活音込みの自然の音をねそべって聞きたいこともあるんだ。でもいつ飛び込んで来るかもわからない腹から出る文句を言ってる感じの声に心がいつもどこか臨戦体制になってしまって100%休めることができないんだ。そしてどこかで、「なぜ我慢させられているほうが耳栓までしなければいけないのか」という根強い感情論による抵抗感もないでもない。だが耳栓自体は有効だ。
『音楽を流せばいい』いつも聞きたい音楽があるわけじゃないんだ。自然の音だけがいいときもある。もちろん音楽がほしいときもある。
ネット検索で引いたサイト運営者のみんな、ごめんよ。たまたま僕の事例にあてはまらなかっただけで、どれも納得の解決策だったよ。
でも共通していることはそうだ。
「聞かなければいい」
そういうことだよな。
たしかにそこにはおおいに真実がある。
こちらががんばって静寂を期して相手の騒音に聞き耳をたてるような感じで待ち受けるような状況を作る必要はまったくないわけだ。
文句を言うために待ち構えるアリジゴクみたいなことはしたくない。
音は。いや、声は。
塞ぐか音で打ち消すかしかないわけだ。
臭いものにフタをするか、毒をもって毒を制するしかないわけだ。
こんなにしっくりくることわざがすでに存在しているとは・・昔の人も同じことでもしかして悩んだのか?
いや、それはいい。
音は塞ぐか打ち消すかの二択だ。
そうしないと心がざわざわさざめいて落ち着かないのだ。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・・!
そうだ。
お経はどうだろうか。
そう、その時きっと。
僕は悟っていたんだ。
読経により騒音を打ち消し、お経のありがたさにより心のイライラが平穏に導かれる。
課題をすべて解決する答えがそこにあった。一石二鳥、唯一無二のそれが。
家からもってきていたJBL GOのスピーカーをスマホとブルートゥース接続する。
YouTubeで「お経」と検索した。
般若心境がたくさんあがっているな。
再生ぽちっと。
うむ、悪くはない、ただこれは一心不乱に感じるにはいいが、静寂のためにはちょっとビートが効きすぎているな。
やはり我が家でよくきいて来た浄土真宗の「カーン」と「なーもあーーみだーーーああんぶ」のほうが僕的には落ち着きそうだ。
でも、音を音で打ち消すにはそれなりに大きな音で聞かざるを得ない。
むしろこちらがあちらに迷惑をかけたりはしないか、とふと思い立った。
・・・。
・・・・・。
いや、そうではない。
向こうも大きな音を出すことを気にしないから僕が今気になるほどの音が響いて来るわけだ。
逆に言えば相手は音を出すことを誰よりもまず認容していると推認できる。
この部屋に来た頃の僕は、この場所があまりに静かだったのでこの部屋で歌うこともしなかったし
ハーモニカも練習しようと思って持って来ていたが、家具がないためかあまりに音が大ホールのように響くので断念していた近くて苦い過去がある。
エレキギターも持ち込んだが、アンプを通さずに練習していた。アコギなら僕的にはOUTだ。いや、だった。もうそれはすでに過去になったのだ。
今、ついにこの部屋で有音の趣味を楽しむことができるのだ。
すくなくともお隣が腹から声を出して叫んでいるときは有音OKの時間だろう。
もしうるさいと思われてもそれはお互い様になるだろうし。
そうだ。
お互い様というのもたしか仏教用語だったはず。
僕の迷いは霧散した。
これなら僕は迷惑をかけない。
浄土真宗・再生。
音が聞こえなくなる。正確に言うと、お経だけが僕に届く。このスピーカー小さいのにいい音出すな。
そして。
それよりもなによりもお坊さんの声がいい。
カーンの音のたかさとお坊さんの声の低さ、そしてゆったりとしたビートは僕のこころをありがたくしていくじゃないか。
これだ。これだったのだ。
隣人の騒音を無効化し、心を静穏化する唯一の選択肢はお経だったのだ。
歌詞を・・僕も読みたい。読経したい。
ここは誰もいない部屋。
誰にとがめられるでも気を遣う必要もない僕だけのスペース。
こころゆくまで遠慮することもなく自分時間に浴しよう。
いい声のお坊さんと一体となって発声していると心が洗われるようだ。
これがカタルシスか・・?
家でこれやってたら家族に心配されてしまいそうだから部屋でやるにはぴったりじゃないか。
また一つ僕の人生にゆたかさの選択肢が増えた。
悪くない。お経、悪くない。
そしていろんな声がある。
お坊さんはボーカリストでもあるのだな。
隣人の騒音でもなんでも自分にとって気づきを与えるのだと思うとありがたい気持ちになりますね。
それにこれでどちらも音を出す自分の生活をたのしみあえるわけですから、変にお隣とその音を憎み、憎しみをためてストレスをためて生活するよりも、こうやって頭をつかって解決していけばお互い様にもなりウィンウィンにもなるのでは?と思いました。